令和6年9月能登半島豪雨 ボランティア
令和6年9/30〜10/6


令和6年9月能登半島豪雨


 令和6(2024)年9月21日から23日にかけて、石川県能登半島で発生した豪災害で、「能登豪雨」、「奥能登豪雨」とも呼ばれている。
 輪島市では1時間に121ミリの雨が降り、48時間の降水量が最大498.5mmを記録した。同地点の平年の9月の降水量は214.5mmなので、2倍の量がわずか2日で降ったことになる.。 珠洲市の降水量も同じく、同地点の平年の9月の雨量の2倍を超えた。
 
 9月24日午前7時30分時点での国土交通省の集計によると、石川県が管理する19水系26河川で氾濫による浸水被害が発生し、2か所で堤防の決壊を確認した。土砂災害は17件起こり、17路線27カ所が通行止めとなり、56カ所の集落が孤立状態となった。
 
 10月1日時点で、死者13名、行方不明者は2名、避難所開設数30、避難者数は454人と言われている。
                                                      -ウイキペディア-
                                                      -石川県HP 令和6年(2024)年奥能登豪雨に関する情報-  より

 地震の被害からようやく立ち直りつつあった石川県でまた自然災害が‥
涸沢に行く予定をとりやめ、
ボランティアセンターの佐渡さんに連絡がつくのを待ち、能登へ。。
今回は水害の被害。

山口・島根で11年前に起こった豪雨災害
あの時私も自衛隊の方に救助していただきました。
あの日を思い起こしながら、13時間かけて向かいました。


 山口・島根豪雨 平成25(2013)年7月28日 
  山口県と島根県の県境で大雨が降り、山口市では1時間当たり143mm、島根県津和野町では24時間の降水量が381mmを記録した。全壊49棟、半壊72棟、一部損壊81棟、床上浸水778棟、床下浸水1309棟、死者2名行方不明者2名の被害をもたらした。
 この豪雨で気象庁はこの豪雨の1か月後に、適用予定であった特別警報に準ずる対応をとった。

9月30日

金沢東で高速を降り、ガソリンと食料を調達してのと里山海道へ。
前回同様、海沿いはとてもきれいな道。  
7月終わりから全面開通しているのと里山海道。
両方向通行はできますが、奥能登に近づくにつれ
地震の爪痕はあちこちに・・・
前回のように地割れこそありませんが 湾曲や凹凸があり
徐行しないと車が大きくバウンドします。 
   
柳田から県道6号線へ。
相棒のカーナビは通行止めで珠洲市周りを推奨していましたが、
グーグルマップは、2か所迂回すれば通れると出ていました。
それを信じて進むとやはり通行止めの看板が、
右側が正規の道ですが、完全に崩落しているので左側の迂回路を進みます。
   
柳田から町野に近づくにつれ、水害の爪痕が色濃くなってきました。
大きな木が山から川に向けて道路を家を飲み込んで流れていったのがわかります。
私たちが春お世話になったもとやスーパーのあたりも流木に埋め尽くされていて
その日の濁流のすさまじさを思わせました。
夕方、曽々木のふるさと体験館に到着。
さぁ、明日からできることをできるだけ。
 
10月1日(ボランティア1日目) 
朝海岸を歩いてみました。
山はいたるところで崩れ
海岸にたくさんの流木が押し寄せていました。 
   
4月の曽々木海岸   現在の曽々木海岸
  
 かっては、こんな風景も見られたそうです。
10月1日最初のボランティアはこの時国家に近いNさんのおうちでした。   
Nさんのおうちは川のそばにあり、道路に面している2階部分からと川と同じ高さにあった1階部分
両方に水が流れ込んできたのだそうです。
奥様は娘さんの出産のために留守、ご主人は近くのお年寄りの方を救助に出かけられていて
難をのがれたそうです。
今日の作業は、泥に埋まった1階部分の倉庫の泥出し
床が見えてくるまで、時間がかかりました。
 時国家 
 
ボランティアが終って、佐渡さんとともに小学校のそばにある仮設住宅へ。
そう、今日は1日、地震から9か月目のメモリアルの日でした。
 午後6時、人が集まってきました。
このメモリアルは2月1日から毎月おこなわれているそうです。

今日のボランティアに伺ったNさんの言葉を思い出しました。
「地震で崩れたのをやっとなおして、今度は雨で‥
もういいかなとあきらめかけていたけれど、こうしてきてやってもらって
もう少しがんばろうと思えました。ありがとう。」

私たちができることはほんの少し。
これからまだまだ大変。
分かっているだけにうなだれるしかないけれど、
人とのつながり、気持ちが
前に進む手掛かりなれば・・・
それは、みな同じ・・
こちらこそありがとうございます。

10月2日(ボランティア2日目)


豪雨の時は膝まで浸水したという八世乃洞門トンネル
今は、水は引いて工事車両は通れるようになっていました。

春はこの横の接吻トンネルを歩いて通りましたが、
今は大きな岩でふさがっていました。
   
4月の接吻トンネル   現在の接吻トンネル
  接吻トンネル 
   
  八世乃洞門トンネル(珠洲市側)

トンネルの上の山が崩れ
土砂が流れ込んだのがわかります。
ここの海岸も大きな流木で埋め尽くされていました。
 
  八世乃洞門トンネルの先にある海楽荘
豪雨でご主人が濁流に流されてしまったそうです。
4日前ご遺体が発見され
今日はご葬儀が行われているとのこと。
奥様のご希望は
この右側にあるカウンターにご位牌を置いてあげたい。

この日の朝、春一緒にボランティアをしたOさんと再会。
ずっと前から知っている人のように
すぐに冗談を言い合える不思議な関係です。

一緒にトンネルの入り口から15分歩いて海楽荘へ。
50cm程埋まった土を
重機と、7人の力で階段下まで掘り進むのがやっとでした。
午後3時
作業を終え曽々木側に戻ってきました。
春山菜をとりながら千体地蔵を目指して歩いた道は
跡形もありません。
千体地蔵  
 
 
 春は窓岩からとドンネル側と両方から上がってみましたが、
途中の道が崩れてたどり着けませんでした。
もう完全に崩れ落ちてしまったのですね。
 
朝は、大きな石がごろごろして
歩かないといけなかった道が
車が通れるくらいになっていました。
工事の方の不休のお仕事の力で
少しずつ生活が取り戻されていきます。
本当にご苦労様です。

10月3日(ボランティア3日目)

この日からはボランティア1日目で伺ったNさんのおうちに行きました。
遠い山が崩れ、谷伝いに流れてきた流木が
家を壊しながら押し寄せてきたのがわかります。
本当に怖かったでしょう。
今日は一階部分の泥を掻き出しながら
泥で埋まったものをとりだし
使えそうなものとそうでないものに分ける作業でした。

ここが私たちのボランティアセンターふるさと体験館の体育館です。
私たちのように車中泊をする人、
ボランティア用テントに泊まる人
様々です。

昼から降り出した雨
降水量20mmを超えると生命線である県道6号線が通行止めになり
また孤立状態になるということで、
工事車両や警察も夕方あわただしく町を出ていきました。

道路が通行止めになると2日町野に入れなくなるということで、
お風呂にいくのをやめようと話していると
それを聞いた区長さんが
普段は工事車両の方に貸し出している民宿のお風呂を
私たちのために開放してくださいました。

お風呂から上がると、
広島から2人、東京から1人、福岡から1人
千葉から1人、三重から1人、そして私たちに
佐渡さんがおいしい焼きそばを作ってくださいました。

助けているつもりで。助けられている。
人のつながりの温かさを実感します。
引用は、 上記の曽々木観光パンフレットを参照させていただきました。

10月4日(ボランティア4日目

今日もNさんのおうちを作業させていただきます。
今日は9人ボランティアがいるので、
下の階の泥出しをするチーム
お風呂をきれいにするチーム
2階を掃除するチームに分かれました。
私は相棒と2階を担当することになりました。
上の階から下を見た風景です。
遠くからながれてきた流木が家を貫いて積み重なっています。
昨日からの雨で、土砂が水を含み
道路は沼のようになっています。
雨水を含んで重くなった土砂を土嚢袋に詰めて処理場へ。
とってもとっても
泥は絶え間なく流れてきます。
いろいろなものが詰まっていたお風呂
根気強く泥をかきだされていました。
一日かけてきれいないお風呂に
このお風呂に入ってほっとできる日が早くきますように・・ 
 
   
拭いても拭いても乾くとまた土が現れます。
根競べです。
初日には5cmほどの土砂に埋まっていた一階
周りの流木や土砂もなくなり
光が入るようになりました。
きれいな部屋ができると、そこにものを収納することができます。
私と相棒が担当した台所も目地に入った泥も掻き出して
出てきた砂を掃いて拭き上げ
スリッパで入れるようになりました。

この台所は一月の地震で壊れた後、
ご主人と奥様二人で、フローリングから壁紙まで貼ってリフォームしたばかりだったそうです。
まだ電気が止まっていますが、一日も早くここで料理ができる日が来ますように…

作業をしているとき、近所の方が用事で立ち寄られ
「きれいになったね。」
と言われ、依頼者の方が、
「本当に助かっています。」
と話されているのが聞こえてきてうれしかったです。

その方は、1月の震災でご両親と奥様を亡くされ
つぶれた家の中から自力で3人の子供たちを救い出されたのだそうです。

「一時は声がかけられなかったんです。
でも、今はこうして声をかけに来てくださって・・
本当にありがたい。」
奥様が話してくださいました。
辛いことを乗り越えた人の優しさ、絆。
能登で教えてもらいました。

10月5日(ボランティア5日目

  今日は現場が二つに分かれました。
相棒は、海楽荘の泥出し作業です。
今日は重機がないので、
男性5人でひたすら地道に泥をスコップですくってかきだし。
引いてあった絨毯が泥を吸って重く
スコップが通らなくて大変だったようです。
私は、Nさんのおうちへ。
今日は台所の横の居間のお掃除。
「今日からここで寝れたららうれしい。」
納戸にびっしり張り付いた泥をとって
何度も床を拭き上げました。

午後からは泥出しと
泥から出てきたものの分別。

前回の地震の時もそうでしたが
災害で使えなくなったものも分別しないと引き取ってもらえない
ものによっては
家庭ごみとして出してくれと言われ。突き返されることも‥‥

別のボランティアセンターから来られた方が、
「ボランティアに行って、ごみの分別だけやるところも多いですよ。
 これって本当に支援なのかな。と思ってしまう。
 この分別システムが復旧を妨げていると思う。」
と話されていました。
一昨日、昨日と雨の二日間は区長さんのお風呂を使わせていただきましたが、
今日は柳田の温泉に入りに来ました。
後ろの建物は地震で壊れたままですが、
前の建物が温泉宿になっていて
地元の方も入りに来られています。
水が出ていない地域の方は無料で入れるそうです。

アルカリですこしぬるっとしていてr
とてもいい湯です。
これで550円は安い!!
疲れが湯の中に溶けていって、心がほぐれていきます。
帰りに春仏様を救出したお家を訪ねてみましたが、
近くにある橋が壊れていて
大きく迂回しなければなりませんでした。
なんとか回り込んで探し当てましたが、
地震で壊れた家屋が水で押し流され
住むことはできない状態になっていました。
金沢の子供さんのおうちに身を寄せているといわれていた
ご夫婦のご健康を祈るばかりです。
   
町野の街をぐるっと回りこむように帰っていると
山がほぼ山頂から崩れ、大きく山肌が削られているところが
何カ所もありました。
この木がすべて流れてきたから
こんなに甚大な被害が出たのだとわかりました。  
  自衛隊のお風呂があったところで建設中だった仮設住宅が完成していました。
ここは、今回の水害でも浸水しなかったということを聞いてほっとしました。
どうか、本当に穏やかな生活が戻ってきますように…
ボランティアセンターの駐車場に戻って
k-aiで乾杯
この時間があるから頑張れます。
今回相棒が購入したジェットボトルで米からご飯を炊けるようになったので
そのご飯とインスタントのカレーを温めて夕食です。

ボランティアもあと二日。
できることをできるだけ・・

10月6日(ボランティア6日目))

ボランティアセンターの前にある仮設トイレ
新潟県見附市とかかれています。
春は富士宮市でした。
トイレは本当に生命線
お世話になりました。
最後に少しだけお掃除させていただきました。
明日までボランティアをするつもりでしたが、
明日は大雨の予報
降水量が20mmを超えると通行止めになるので
町野から出られなくなる可能性もあります。

毎日の泥の掻き出しで
私は足が動かなくなってきて
相棒も腕が上がらなくなっていて
体力的にも限界かもしれません。

私は今日までずっと作業させていただいたN さんのおうちを
相棒は、午前中海楽荘、そして午後合流
使えなくなった家電の運び出し
泥から出てきたものの積み込み
そして、泥出し
最後の力を振り絞って、できるだけのことをさせていただきました。

終わりに今日が最後だからとご挨拶させていただくと
奥様が目に涙をためられて
胸が痛みました。
お昼ご飯をみんなで食べているとき
あるボランティアの方が、
「依頼者の方の要望が変わるから、作業をやり直すこともある。
どうしたいのかはっきり言ってくださると、もっと効率よくできるのになぁ。」
と、話されると

 神奈川から来られている79歳のMさんが
「気持ちが変わるのは、状況が変わってきているから。
地震と水害でもう駄目だと思っていても、
少しずつきれいになる家を見て、もしかしたら住めるかもしれない
そういう希望が見えてきて、気持ちが動いている証拠ですよ。
それだけでも、我々が来た意味があるじゃないですか。」
とおしゃられていました。

その言葉が心に残りました。

能登から富山に向かい、剱岳に登っているときも
奥様の涙の意味を
「まだまだ家は元に戻っていないのに、もう帰ってしまうのですか。」
ととらえて、心に鉛が詰まっているようでした。

山口に帰る前の日、そのことを相棒に話すと
「僕は違う意味だと思うよ。だって僕が奥さんと話した時、
ガソリン代も自前で山口からきていることに驚いて
本当にありがとうございます。と言っておられたから。
ご夫婦はこれからも大変だろうけど、
もしこの先本当に落ち着いて生活できる日が来たら、
今度はだれかを助けてあげたいと思う日が来るかもしれない。
僕たちがそうであるように。
東北から、神戸から、広島からその時の自分の思いを抱えて
多くの人たちが能登にやってくるように。」

人の力は微々たるもので、重機ならもっと復旧は進む。
それは確か。
でも、
「なぜ、自分たちだけが2度もこんな目に合わないといけないのか。」
能登でたくさんの人から聞いた心の悲鳴。
たとえ微力でも、集まってくる人の思いが、
能登の方々の心を少しでも動かすことができるなら、それだけで意味がある。
あのMさんの言葉がリフレインのように心によみがえりました。

ご苦労様ですと声をかけてくださる町の方の言葉に心が温かくなって
すごい速さでスコップをふるう若者の横で、へたっている自分に情けなくなって
奥様の涙に胸が痛んで
ボランティアに来たことで
私の心の琴線もたくさん震えました。

人は支えあって生きている。
“いつも”の生活がかけがえないものであること。
普段の生活の中で、私たちは忘れがちになってしまう。
いろんなことを気づかせてもらいました。

支えることは支えられること。
また、いつか、人の思いの集まる能登に行きたいと思います。


 能登の方々が安心して暮らせるようになるには、早急で大規模な支援は不可欠です。山口に帰ってこんなニュースを見ました。

10.11   先月豪雨による被害が1000棟以上に及ぶことがわかりました。仮設住宅も含め、被害が出た住宅は、1368棟確認されたとしています。このうち床上浸水は317棟。土砂崩れなどによる全壊は16棟となっています。現在各地自治体が調査を進めていて被害は更に増える可能性があるとみられます。  テレビ金沢
    今回の支出には、被災者に温かい食事が提供ができるキッチンカーの派遣など、避難所の環境整備など26億円、また、災害派遣の撤去や処理に155億円、そして道路や公共施設の復旧に329億円を支出し、石破政権として509億円の予備費を支出することを表明しました。  
10.12  石川県では、輪島市と珠洲市には、全壊などの被害を受けた世帯に最大300万円の支援金を支給することとしました。国の制度では、半壊の世帯は支援から外れているため、県が独自で100万円の支援を支給するとしています。   テレビ金沢

 もちろん、お金の支援も必要です。でも、もっと具体的なそこに住む人たちが本当に求めていることは何なのか。
そこに寄り添うことが大事なのではないでしょうか。次のニュースを見て、胸が熱くなりました。

10.10
元日の地震と今回の豪雨により乳の被害を受けた町野町のもとやスーパー。住民に親しまれてきた町野町唯一のスーパーを助けようと、大手小売企業が支援に乗り出しています。
 もとやスーパーは、地震で被災しながらも、元日から一日も休まずに営業を続け住民の心のよりどころとなってきましたが、 先日の豪雨で店に土砂が流れ込むなど、多くの被害を受けました。店長の本谷さんはもうこの場所で障害するのは無理かなと話していました。まもなく3週間がたとうとしていますが、今も店の中には泥や流された器が‥

 こうしたな中、大手の小売企業が手を差し伸べ、昨日は店の前に張られたテントに生鮮食品や生活必需品が所狭しと並びました。本谷店長が太鼓を鳴らし開店を知らせ、町から多くの人が店に集まってきました。

 町の人は、
「お金出して買うほうがいい。炊き出しばかりしてもらっても申し訳ない。」
「店がないことが一番つらい。こうしてみんなが集まって話す場所があると嬉しい。」
「ここが復活して、そこから始まって町が広がっていく。もとやスーパーの復活が一番の願い。」
と話していた。

 本谷店長は
「企業さんが協力してくださって、販売することができた。これが商売の始まりになればいい。町野になくてはならないお店と言ってくださっているので、そういう人たちの思いでこの活気が生まれて、助けてもらっているので、皆さんのいろいろな思いに対する責任というのを必ず果たさなきゃいけない。必ずこの場所で水害対策をして、灯をともし続けるということが私の使命だと思っています。」
と語った。

 本谷店長や町の人が地域を愛するパワーが多くの方に響いてその支援が広がっている。店舗内にボランティアとか住民の方が宿泊できる交流拠点を整備する準備も進めている。町の灯を絶やさぬように、もとやスーパーは一歩ずつ前に進んでいる。
テレビ金沢 

 二度の災害にあい、心を折られながら不安を感じながら、やっぱりこの故郷に住みたい。と願う能登の方々の強さ。故郷を思う気持ち。
“能登は見捨てられている。”という声も聞かれるけれど、
直接能登に行って支援することができなくても、
私たちが能登を見続けること、できることは何かを考え続けること。
そうすることが、何かを変えていくと信じています。


令和6年能登半島地震 ボランティア 4/23〜5/1 → https://jk4kea.sakura.ne.jp/watashinchi/outdoor-log-ver3/out-2024-4-notoboranthia.html

令和6年能登半島ニュース               → https://jk4kea.sakura.ne.jp/watashinchi/outdoor-log-ver3/out-2024-5-noto.html