令和6年能登半島地震 ボランティア
R6(2024).4.23~5.1
石川県輪島市町野町




令和6年1月1日16時10分

石川県珠州市の地下16kmで発生した内陸地殻内地震

気象庁マグニチュードは7.6

観測された最大震度は輪島市門前町走出と羽昨郡志賀町香能で震度7

内陸部で発生した地震としては、日本でもまれな大きさの地震であった。

<ウィキペディアより>

1月1日、台湾にいる息子から“海にいるなら今すぐ逃げて”とLINEが入りました。
テレビを見ていなかった私たちは、何が起こったか分からず…
家に帰ってテレビを見て愕然としました。

3月で仕事が終わる。
行こう!と相棒と決めました。
3月の終わりに石川県のボランティアセンターに登録したものの
4月になっても、連絡がなく、気持ちだけが空回り・・

そんな時、同じく退職した相棒の友人がボランティアに行ってきたという話が・・
一般社団法人震災復興子ども支援がボランティアの受け入れをしてくださるというのです。
早速代表のさどさんに連絡をとると、
「すぐ来てください。!」
と返事をいただきました。

県のボランティアセンターは連日の活動は不可で、
山口から行って一日や二日はあり得ない・・と思っていたのですが、
そこは何日いてもいいといってもらい、
もう行くしかない!!
4月23日山口を出発しました。

4月23日(火)
  ボランティアの高速無料化措置が取られていることも分かり、
事前に書類をダウンロード
片道10450円が無料になりました。
途中で出ることはできません。

朝6時に家を出て、2人で交代しながら運転
高速を金沢東で降りました。
金沢が都会なのに驚きました。
地震の形跡もどこにも見当たらず・・・

   
  でも、金沢からのと里山海道に入ると
景色は一変しました。
のと里山海道は、昭和57年に
金沢と能登半島を直結する道路として全線開通し、
平成23年に無料化されました。
日本海を臨む、「日本の道100選」にも選ばれた
風光明媚な道路であったのですが・・・

地震により、道路は崩壊
現在は、能登方向のみの片側通行になっています。
県は5月終わりに両面通行を目指していますが、
片側も通行できるとはいえ、所々道路が浮き上がったり亀裂が入っていて、
スピードを出すと、車が大きくバウンドしてとても怖い・・ 
 
 そして、19:30
輪島市町野町曽々木に到着しました。
家を出てから13時間半。
金沢からが遠かった。。。
看板中央のふるさと体験実習館がボランティアセンターになっていました。
その横にある避難所兼事務所の横にk-aiを停めさせていただきました。
 
 4月24日(水) ボランティア1日目
 
 次の日、まずはここの現状を知ってもらいたいと
高知から来られたOさんと共に、曽々木の町を案内してもらいました。
曽々木は、輪島市なのですが、テレビなどによく映る輪島の中心部に行くには、
西側の海岸線が崩落しているため大きく迂回せねばらず、

東の珠洲市に行くにも、(八世乃洞門新トンネルの向こう側は珠洲市になるのですが)、
その先の逢坂トンネルの手前で249号線が崩落し、その先には行けず・・

この町野にくるには、のと里山海道をおりて275号線を通り、柳田で6号線に入り北上するしかない。
でも、6号線も何か所も崩落し、地震からしばらくは陸の孤島状態。
自衛隊が海から上陸し、ヘリコプターで救助活動を行ったり
支援物資を届けたのだそうです。

ここのボランティアセンターを立ち上げたさどさんは、
1月2日で広島から来られたそうですが、
のと里山海道がむちゃくちゃで、6号線にたどり着くまでに全輪ホイルだけの状態になり、
6号線も崩落して通行できなかったため、
15km歩いて、この曽々木にたどり着いたそうです。
その思いと情熱に頭が下がりました。

今、6号線は開通したものの、ここには社会福祉協議会が存在せず
さどさんが、ボランティアセンターをたちあげて支援にあたっているものの
アクセスの厳しさからか、ボランティアの問い合わせがあっても
実際にここに来る人は1割。

「未だに陸の孤島状態なのです。
実際、町はほとんどの家が倒壊していてあの日のまま。
写真を撮ってもいいですよ。」
と言ってくださったのですが、
とても撮る気持ちにはなれませんでした。
  町案内してもらった後は、ボランティアの現場へ。
初日は、この町の観光名所だった窓岩の近くのペンションの蔵出しでした。
小雨の中、蔵のものを運び出し
箱に入れて大切にとってあった食器類などを一つひとつ取り出して
土能袋に詰めました。
災害で多くのものが出ているのに、分別するんだとちょっと驚きましたが、
収集の人も何度も回ってきて、
種類ごとに積み込みをされていて、本当に大変だなと思いました。

合間でお茶とお菓子をいただいて、
その時お家の人とも話すことができました。
立派な玄関でしたが、よく見ると壁に亀裂が…

「また地震があったらと思うと恐ろしいけど、やっぱりここがいいからね。
慣れちゃいけないけど、あちこち壊れている町も見慣れてしまっている自分が怖い。」

町のほとんどの家の玄関には、赤や黄色の張り紙が貼ってありました。
赤は“危険”黄色は“要注意”
このお家もまっすぐ立っているようでも、赤紙が…

それでも、仮設住宅の建設などに来ている業者さんが金沢から毎日来るのが大変で、
頼み込まれて10人ほどこの家で寝泊まりされているとか…
他にも、この曽々木で工事従事者のための宿にしているところが何件かあるそうで‥

上下水道は復旧したと報道されていても
実際は、家の中の配管が壊れていて
水もトイレもままらない家の方が多いのに、
町の復興を考えて、自分ができることをと考えていらっしゃる姿に
言葉が出ませんでした。
 この町の観光名所だった窓岩
ボランティアセンターのすぐ近くにあったのに、
この家の玄関にある写真とは
全く姿が変わって分かりませんでした。
   
以前の窓岩   現在の窓岩。地震で上の部分の岩が崩落してしまっています。
季節によっては、こんな風景も見られたのに。
4月25日(木) ボランティア2日目  
雨も上がり、ボランティア日和?
トイレがない家もまだたくさんあるのに、
k-aiを停めさせてもらっている公衆トイレは
奇跡的に水が出て助かりました。
ボランティアセンターになっているふるさと体験実習館の体育館横にある建物が
かっての避難所で、自衛隊の救助が入るまで、みんなここで身を寄せあって過ごしたそうです。
今は、2人の方がここにいらっしゃって
3日目まではその方に朝昼晩ご飯を作っていただきました。
自分たちで自活できるよう3日分の食料、水、ガソリンは持ってきていたのですが、
ボランティアが私たちを含め3人しかいない間はいいよ
とのお言葉に甘えて…
私たちの方が助けていただいて、本当にすみません。
 この日は、お寺の崩壊した鐘付き堂の丸太運びでした。
大きな丸太が結構たくさんあって大変でしたが、
和尚さんが、とても楽しい方で
いろいろお話をしてくださいました。
そして、お庭の花の素敵なこと・・・
崩れたお堂や石碑の中で
愛らしく咲いている花たちに
心が癒されました。
水もでないのに、美味しい中華丼やお菓子もいただいて、
助けに来ているつもりになっている自分が
恥ずかしく思えます。
この日の夕食は、避難所に集まってこられた地元の方たちと一緒にいただきました。
皆さん、とても明るくて、見ず知らずの私たちを快く受け入れてくださることがありがたかったです。

お酒が入るにつれ、段々早口になって、理解できないところもあったけど
一つ心に残ったお話が・・・

一つ目のトンネルと、二つ目の崩落したトンネルの間の真浦町は珠洲市
だけど、切り離された状態になっていて
全く水がきていないそう・・・
一方、町野町は場所によっては水が来ているところもある。

行政区が違うとかいうことはおいといて、皆で真浦町の人に水を汲んで運んでやろうや!
と話す人。
いや、行政を無視したら今やっと進み始めた復旧作業が止まってしまう。機会をまとう。
となだめる人。

いろいろな人が、いろいろな立場で、
自分たちのことだけでなく
その隣の町の人たちのことまで考えていらっしゃることに感動しました。

“辛い時ほど、人はやさしくなれる。”
そんな言葉が心に浮かびました。
 
 
 4月26日(金) ボランティア3日目
   
毎日海の音を聞いて目覚めるのはうれしいことです。  
でも、朝の散歩で見かける無数のごみ。
よく見るとハングル文字が。
昨日の宿の奥さんも、何度海岸清掃してもすぐにゴミでいっぱいになる。
と嘆いていらっしゃいました。
 この日は、小学校の近くのお家に伺いました。
家は、崩れてしまっていました。。。

ここで、ボスのさどさんから言われたこと…
「ボランティアで絶対言ってはいけない言葉は、“何をしましょうか。”
被災者の方たちは、どうしていいか、何からしたらいいか分からない。
そして、この奥能登の人たちは大半が奥ゆかしくて
してもらうのが申し訳ないと思ってしまう。
だから、ゆっくりその人の話を聞いてあげてください。」

本当に、出てこられたその家のお母さんは、
「他にも大変なお家はたくさんあるのに、申し訳ない。」
と恐縮されて、なかなかこうしてほしいとは言われませんでした。

でも、震災当時のお話を聞いたり、お孫さんの話をきいているうちに
「写真があったらうれしい。」と話してくださいました。
ボスがバールで、つぶされたタンスをくり抜き写真を取り出すことができました。
冷蔵庫の処理、節句人形も取り出すことができ
本当にうれしそうに笑ってくださったお顔が忘れられません。
 この日の夕飯から自分たちで‥
15km離れたコンビニまで通わないといけないかと思っていましたが、
近くのスーパーが開いていることを知って、
氷と炭酸も手に入れることができました。
これで、ソーダ割ができるぞ!!
持ってきた食材で一杯。
と思っていたら、昨日であった地元の方が
「あんたら、これおいしいっていいよったけん、もってきてやったど~」
袋いっぱいのタラとコシアブラ
スーパーで天ぷら粉と油もゲットして、天ぷらだ~
今までごちそうしてくださった避難所の方に届けても食べきれない・・・
本当に、本当にありがとうございます。
 
 4月27日(土) ボランティア4日目
 ボランティアは9時から1時間の昼ご飯を挟んで15時。
自衛隊のお風呂に入って、スーパーでお約束の氷と炭酸を買ったら
k-aiに戻って5時から飲んでしまうと‥
いつも8時だけど、7時に寝てしまう私。
そして、5時前に目が覚めて
することがない。。。
海岸線を歩くのも飽きてしまい、
そうだ!この町のもう一つのシンボル
千体地蔵を探しに行こう!!
登山口を見つけ上がってみましたが、
岩倉寺の分岐から数百メートル
立派な遊歩道だったと思われる道は
ぷっつりと途切れ落ちていました。
ずっと3人だったボランティア
今日からは大学からもボランティアが入り、なんと56人の人が集まるとか…
センターの前で、初めての朝礼も開かれました。  

そこで、区長さんからのお話がありました。
「この曽々木はかって1000世帯約2000人の人が住んでいました。
でも、地震で2次避難や親せきを頼って出てしまい
今400人から500人の人しか住んでいません。
町の風景は、あの日のままです。
全く変わっていません。
皆さん、来てくださって本当にありがとうございます。
何も変わっていないということを
どうか、発信してほしい。」

写真を撮るなんでできないという気持ちが揺らぎました。
そうだ、私がここでできることは限られている。
もっと、多くの人にこの現状を知ってもらうことこそ
この町の復興のために、本当に必要なことではないかと。
写真も撮らせてもらおう、ホームページを作ろうと決めました。
 この日は名舟という輪島に向かっていく海岸線のお家へ行きました。

隣には、土砂の山が・・
実は、ここにはまだ家が埋まっていてそこに住んでいらしゃった人もおそらくそこに・・
皆で黙とうをささげてから作業に入りました。

今日は、大阪から来られたボランティアの方も一緒です。
人がいるってやっぱり機動力が違う!!
2階から、お母さんのご要望を聞きながら必要なものを取り出します。
前は裁縫が趣味で、着物の端切れなどでバックを作って東北に送ったりされていたとか‥
「自分がこんな風に助けてもらうことになるなんて・・
今は、端切れを見ても何もする気になれない。」
とおっしゃるお母さんに、
「落ち着いたら、また素敵なバックを作ってください。」
と声をかけながら、裁縫道具や着物類を下ろしました。
日本人学校にいたことがあることや、キリングをされる友だちのお話も聞かせていただきました。

昼から、大学生ボランティア60人分の炊き出しにセンターの戻りました。
一緒に炊き出しをしてくださった方は、毎日1000人分の給食を作っていらっしゃるプロで
その手際のよさと技に驚愕。
いろんな方が来ていらっしゃるのだなと思いました。
   ボランティアの後、一緒に活動した人たちが山菜を見たいと言われるので、
千体地蔵散策の時に見つけたタラ畑に案内しました。
クズの芽もたくさんあって、今日も山菜パーティです!
お風呂に入って、車の前で天ぷらを揚げていると、
軽トラが停まって
「毎日ご苦労様です。これ食べてくださいね。」
サザエご飯をいただきました。
そして、避難所の方からは、
ワカメと味噌漬けとサザエのダイコン和え
をいただきました。
 
 昨日食べきれなかった山菜と合わせて超豪華な夕食になりました。
今日一緒に活動したボランティアの方々に分けてもこの量です。
あったかいって幸せです。
ご飯も。心も。
ボランティアも半分過ぎました。
明日もできることを、できるだけ。
安全に。
 
 4月28日(日) ボランティア5日目
 千体地蔵があきらめきれない私たちはもう一つのアプローチ口へ。
八世乃洞門新トンネルの手前にある登山口から登ってみました。
でも、ここはずいぶん前に取り付けたと思われる“崩落のため登山禁止”の看板がありました。
  
歩くこと15分。
大きな岩がゴロゴロ転がる谷で
道は分断されていました。
今回だけでなく、ずいぶん昔の地震の跡かと思われる岩もありました。
 今日の現場は、真浦町でした。
崩壊した逢坂トンネル手前の道路
地元の人の話によると、
このトンネルの手前にあるカメラにその地震の直前入っていった車が映っていたが
出口にはその車は映っていなかったそうで‥
もしかすると、この中にいらっしゃるかもしれないそうです。
今日の現場は、いつもセンターでお世話になった方のお家でした。
お手伝いさせてください!!

大学生ボランティア8人と
冷蔵庫などの家電、布団を出しました。
若い力って素晴らしい!!
その方の家から見える港。
近くで見ると、隆起していることがよくわかります。
海岸線一帯そうだけど、白くなっている部分が隆起したところで
ここも船が行き場を失っていました。
そして、道路は、こんな風にあちこち亀裂が入っています。
午後は、別のお家へ。
2階から物をどんどん下におろします。
今までかかわらせていただいたほとんどのお家がそうですが、、
中のものを出しそれを分別回収
空になって公費で解体
という流れになるようです。
でも、その運び出しは到底お家の人だけではできず
ボランティアの力はやはり必要です。
   
4月29日(月) ボランティア6日目

千体地蔵への登り口、八世乃洞門新トンネルの横には、
二つのトンネルがあります。
 

一番海側にあるトンネル。
1972年海蔵八世住職の麒山 瑞麟(きざん ずいりん)が多くの死者を出していた
この岩壁に13年の費やしてトンネルを掘り、麒山道と呼ばれた。

1887年、石川県により大改修が行われる。
のちに、映画の舞台となったことから、せっぷんとんねると呼ばれる。
トンネルの終わりごろにハート型のイルミネーションがありました。
 
  八世乃洞門(はせのどうもん)曽々木隊道
1963年開通
通り抜けはできない?
  2007年3月25日 輪島市沖で起こったM6.9の地震で八世乃洞門曽々木隊道損壊し、

2009年に三つ目のトンネル、八世乃洞門新トンネルが完成したそうです。
昔はこの岩壁を通っていたのでしょうね。
トンネルの入り口近くにある石仏
トンネルを見た後、一縷の望みをかけて春日神社へ。
その入り口で出会った若者の話では、
ここから千体地蔵が見えていたそうですが、
今はどこにあったか分からないので、
岩全体が崩れ落ちたのではないかということでした。
   
岩肌に見えていた千体地蔵   千体地蔵が見えていた岩肌
今日は、昨日午後に行ったお家。
今日の一番のお仕事は、仏壇においてあった仏さまを見つけ出すこと。
一階に会った仏壇は、2階の重みでつぶされていて
前日この辺りではというところを探すも見つからず。
もしかすると、地震の振動で、隣の部屋に飛ばされたのでは、、、
工具持参のボランティアの方と一緒に
一枚ずつ押し入れの床板をはいでいくと‥
いらっしゃいました!!
 1階部分は、ほとんどが2階の床や柱に押しつぶされている中で、
仏様の周りだけはすっぽりと空洞になっていて
ほとんど無傷の状態で助け出されるのを待っていらっしゃいました。
すごい!!
   
   ボランティアを終え、お風呂に行く前に、輪島側の通行止めになっているところを
改めて写真を撮らせてもらいに行きました。
もうすぐ、地元の方は通れるようになるそうですが、
ライフラインの復旧を願います。
  こういう写真をとることに抵抗を感じていましたが、
でも、これが現実。
あの日のまま。
何も変わっていない。
変われない。
それを変えるために発信しよう。
 
4月30日(月) ボランティア7日目   
   
今日のボランティアを終えたら、
今日の夜は金沢まで帰ろうと思っているので、
この景色も見納め。
なんだか、去りがたくてたくさん写真を撮りました。
私たちが、千体地蔵を見に行けなかったことを知った
ボスが忙しい中、
岩倉寺まで私たちを連れて行ってくれました。
祈願寺だったという岩倉寺は
参道も本堂も崩れ落ちていました。
道路も荒れているのに
連れて行ってくださったご厚意に感謝です。
最終日は、真浦のお家の家財出しをしました。

日本各地から集まった人たち。
ここに来る人達の想いと技術がすごい。
その方のお家の一階をほとんどきれいに片付けることができました。

1月1日にこの町に観光に来ていて震災に会われたというご夫婦。
その時、この町の方たちが、避難所に呼んでくれて助けてもらったから
連休はここに来ようと決めていたそうです。

その方の言葉が心に残っています。
“私は微力です。
でも無力ではない。
皆の力が合わされば、
きっと何かが変わる。”
午後からは、町の道路に倒れているブロックを片付けて
ボランティア活動を終えました。
お世話になった方々にお礼を言って
毎日入った自衛隊のお風呂に行きました。
本当にここがあったから
リセットして次の日がんばれました。
ありがとうございました。
来た時には、基礎を打っている状態だった仮設住宅は
家の状態になっていました。
8月の完成に向けて、
工事の方々も休みなくお仕事をしてくださっているのですね。
  5月1日(火) 
 前泊した金沢市に一番近い道の駅を朝6時45分に出発。
帰りも高速の無料化で17時45分に帰ってきました。

帰りは11時間。847kmの旅でした。


倒壊など被害を受けた住宅は7万8568棟。うち8560棟が全壊

245人死亡、3人が今も行方不明

4600人が避難所での生活を余儀なくされており、

3780戸で断水が続き、今も自宅に帰れない被災者も多く

必要とされている仮設住宅は6421戸のうち、3300戸が完成。

8月までに完成を目指している。

しかし、公費による解体は全体の1%しか進んでいない。

5月1日に久しぶりに見たテレビで言っていました。


行ってよかったと思います。

その現状を知ることができたこと、

そこに住む人たちの強さとやさしさに出会えたこと。

おいしいご飯をくださった避難所の方。

美味しい山菜やご飯を差入してくださった方。

「お前らずっとここにおるのう。ありがとうのう。」と声をかけてくださった方。

「足痛いんじゃない?無理しないでね。」と私の足をさすってくださったお母さん。

「歌っていかんかい。」スーパーの前で毎日声をかけてくれたおじさん。

これは、福を呼ぶからと、曽々木の紹介カードを持ってきてくださった方。

人ってすごい。力をもらったのは私たちの方でした。

本当にお世話になりました。

ありがとうございました。


アウトドアレポート