夢は叶えるもの
憧れのペルー旅

マチュピチュ編
2024(R6)7.4~7.5

Machu Picchu

30年前のベネズエラ在住の時は
フジモリ大統領が治めるペルーでテロ事件が起こり
外務省が渡航を禁止していました。
そのために近くにいながら行くことがかなわず
帰国してから27年間
マチュピチュへの想いをずっと抱えていました。

夫婦でセカンドライフをスタートし
夢を夢で終わらせないために
ついに
やってきました。

マチュピチュです


さぁ
マチュピチュへ

7月4日
現地(ペルー)時間で 4:00
早朝5:00発のクスコ行きに搭乗するためホルヘ・チャベス国際空港に来ました。

2時に起きてホテルを2時半に出ました。
時差ぼけなのか興奮からか
元気いっぱいです。

夫婦の夢がかなう一日が始まります。
滑走路を歩いてラタム航空のジェット機に乗り込みます。
席はエコノミーしかありませんが
SPエコノミーという席で
3席を独占できる最前列でした。
飛行機の中で朝を迎えました。
もうすぐクスコ空港です。
心が躍ります。
6:20

現地のコーディネーター
ホスティーノさんと合流しました。

クスコに住んでいらっしゃる方で
ミッキーツアーのスタッフです。
よく勉強していらっしゃって
クスコの歴史やインカ文明の歴史など
詳しく教えていただきました。
クスコ旧市街地「アルマス広場」から2ブロック離れた「ノボテルホテル」に荷物を預け
マチュピチュ村までつながっているオリャンタイタンボ駅まで下ります。
クスコはマチュピチュよりも標高が高く、海抜は3360mあります。
オリャンタイタンボにつながるウルバンバは標高約2800mで、車で500mのダウンとなります。
駅があるオリャンタイタンボには有名なインカ帝国砦の「オリャンタイタンボ遺跡」があります。
ウルバンバまでの道沿いにきれいな湖が広がっていました。
湖岸の畑に主食となる穀物の
「キノア」の畑がありました。

この「キノア」はゴマよりも小さな実で、
スープやおかゆのような料理に使われていて
これから何度も食することになります。
聖なる谷「ウルバンバ」です。
十数年前の水害でウルバンバ川が氾濫して
市街地の一部が水没し、大きな橋も流されたそうです。

ウルバンバを見下ろす展望所です。

ウルバンバの町を抜け、オリャンタイタンボへ向かう途中、
断崖を見上げると
以前「世界の果てまでいってQ]でイモトが紹介した「崖っぷちホテル」がありました。
ロッククライミングでカプセルまでよじ登り
帰りはジップラインで一気に下りるのだそうです。
一泊500ドルから800ドルで一部屋に7人宿泊できるそうです。
すでに数年間の予約でいっぱいのようです。

オリャンタイタンボまで下りてきました。
日本でいうコンビニだそうです。
「キオスコ」と呼ばれています。
このキオスコでは両替もやっており
1ドルを現地通貨で37ソルに替えてくれます。
レートはその都度ある程度変わるようです。
オリャンタイタンボ駅でマチュピチュまでの列車を待ちます。
列車は「ペルーレイル」と「インカレイル」2社が競合しています。
今回の旅行は「ペルーレイル」で
片道2時間ちょっとの列車の旅になりました。
ちょっと贅沢な列車で
展望車両でした。
車窓から「アンデス」の山々が見えます。
順番に最後尾の展望デッキに移動します。

 動画:デッキから見る風景
山岳地帯から亜熱帯のジャングルに変わってきました。
思っているより日差しが強く
帽子とサングラスは欠かせません。

ちなみにこの帽子はナスカの地上絵を見に行った
「ピスコ空港」のキオスコ
で買いました。
12:11
マチュピチュ村の「アグアス・カリエンテス駅」に到着しました。

マチュピチュ村は標高1800mです。
マチュピチュ遺跡は標高2400mなので
これから600mアップです。

ちなみにマチュピチュ山は標高3050mです。

マチュピチュ村はウルバンバ川をはさんで駅周辺のお土産屋通りと
ホテル&レストラン通りに分かれていました。
この村に入るには荷物の制限があり
概ね5kg以内にまとめなくてはいけません。
ペットボトルの持参も不可で
水などはボトルに入れて持ち込む必要があります。

駅舎からゲートをくぐって村に入ります。
この村は観光で成り立っています。
マチュピチュ遺跡に入るには事前の許可が必要で
入場料もかかります。

環境を維持していくためには大切なことだと思います。
ここマチュピチュ村でのホテルを確認し
遺跡へのバスに乗り込みました。

ここから遺跡まで九十九折を登っていきます。
インカ道を歩いていくこともできるようですが
片道2時間程度かかるようです。

何組ものバックパッカーが歩いて登っていました。

マチュピチュ遺跡の入り口直下にあるホテルのレストランで
昼食をとります。

気持ちははやるのですが
入場の予約が午後2時からなので
勝手に入るわけにはいきません。

テーブルの肉はアルパカの肉です。

味はクジラの赤身のようで美味しくて好きになりました。
ようやく待ちに待った時間になりました。
遺跡のゲートに向かってたくさんの人が列を作っていました。
ガイドのホスティーノさんが紹介してくれました。
蘭の一種ですが肉食なのだそうです。
指を入れると喰われると言っていました。

本当かなぁ。
ジグザクの道を登っていくと
事前に本で見ていた建物が見えてきました。

あれが見張り小屋だとすると…
間違いなく「見張り小屋」です。

うおー
もうすぐマチュピチュがこの目で見える!
進んで
進んで

動画:ついに来たぁ
目の前にマチュピチュ遺跡です

うれしすぎて
うれしすぎて

サングラスを外して改めて裸眼で目に焼き付けました。
旅が好きな人なら人生で一回は来てみたい場所です。
他の観光客も大興奮でした。

むっちゃ気持ちがわかる!
後ろを振り返ると
大きな頂が見えます。

実はこの山がマチュピチュ山です。
そしてマチュピチュ遺跡の奥にある頂が
ワイナピチュという山です。

この山に登るツアーもあるそうですが
これも予約制で自由に行けるわけではありません。
すげー

かっこいー
遺跡とワイナピチュの両側は
このような深い谷になっています。
天空の町
マチュピチュです。
よく見ると
遺跡の中心部は壁に囲まれています。

堅い守りの要塞だったことが伺われます。
要塞のマチュピチュ山側は
広場と石段が重なっていました。

ここは昔畑だったのでしょうね。
人気の写真スポットで一枚。

お国柄なのか何枚もポーズを決めて写真を撮る人が多く
順番が回ってくるのに当分かかりました。
そんなにポーズをとる必要があるのかなぁと
いまだに理解できません。

さあ
遺跡の中に入ってみましょう。

最初の門をくぐって石段を下りていきます。
遺跡の中は回廊になっていました。
門の内側にはいくつもの細工がしてあり
丸太を組んで堅固な門にしてあったようです。

研究者が門の想像図を描いています。
宗教的にみると祭壇だったようです。
西側の段々畑に通じる太陽神に感謝する飾り棚です。
コカの葉が重ねられていました。

お供えなのかなぁ。
マチュピチュ市街には19もの集落があり
住む者の身分や
宗教的な意味のある区画で分けられていたようだです。

第一の集落には「カリャンカ」と呼ばれる
訪問者のための休憩部屋があり、区画分けされています。
崩れているところもあり
回廊を複雑にしています。
集落を分ける通路の奥には
ワイナピチュが見えます。
後ろを振り返ると
段々畑の奥にマチュピチュ山がそびえます。
カリャンカの中に入ってマチュピチュ山を望んでみました。
これらのカリャンカの一つの数メートル下に
お墓の存在が発見されたそうで
まだ発掘調査は始まっていませんが
新しい発見があるかもしれません。
おトイレだと説明がありました。
排泄物を処理するという発想がない時代だったそうで
それにしても
どう扱われていたのか興味があります。
屋根の土台が残っています。
三角屋根の建物が整然と並んでいたのでしょう。
石工が過ごす作業小屋であったといわれています。
市街地の中から見る景色も圧巻です。
目の前はメイン広場になります。

メイン広場の手前は墓地跡だと説明がありました。
皇帝の部屋へ向かう回廊だと思います。

 動画:回廊
この日は通行不可になっていました。
インカの人々も
市街地からこの景色を見ていたのでしょうね。
市街地からふりかえる段々畑です。
畑の奥に貯蔵庫が見えます。
太陽の神殿(画像左奥)
右の岩肌に見える縦のラインはインカ道だと説明がありました。
真ん中の山の縦の切れ目は断層だそうです。
太陽の神殿を真上から見下ろしました。
ここが遺跡のシンボルになっています。

その右側が王女の神殿だそうです・
ここは石切場です。
石の割れ目に木の棒をさし
その木に水を含ませながら膨張させ石を割っていたそうです。
石切場を抜け
聖なる広場へ出ました。

左奥にインティワタナとよばれる
遺跡の中で最も高い場所が見えます。
遺跡の中でも謎の多い建物と呼ばれる
3つの窓の神殿です。
 

ここは聖なる広場
両側が観客席になった広場では
いろいろな儀式が行われていました。

広場ではリャマなどの動物がのんびりと過ごしていました。
広場から振り向くと
観客席がよくわかります。
インティワカナから石組みの遺跡を回り込みます。
反対の斜面に小さな段々畑があり
いろいろな種類の植物が発見されている場所で
この時代の農業試験場ともいわれています。
ワイナラと呼ばれる二つの小屋です。
現在はワイナピチュへの登山客の休憩所になっています。
ワイナラにはさまれた位置にある
聖なる岩です。
目の前のヤナンティン山を模したとか
ネコなどの動物の形であるとか諸説あるそうです。

パワースポットとしても有名です。
ワイナラの内部です。
茅葺の三角屋根が復元されています。
儀式の準備や見張りなどに使われていたそうです。
 このワイナラの奥に
ワイナピチュへの入り口がありました。
ワイナピチュが目の前にそびえています。

マチュピチュの市街地は上部市街部と下部市街部の二つで構成されていて、合わせて19もの居住区に分けられています。
ワイナラから下部市街部へ進んでいきます。

技術者の居住区を抜け
斜面に造られた居住区へやってきました。
急斜面を利用して造られた2階建ての家です。
このマチュピチュは
他の国からやってきた有能な技術者が作った街だそうです。
以前は体の小さな原住民がいたそうで
その者たちは下部市街部の
この小さな区画に住まわされていたそうです。

北海道のアイヌ民族と
コロボックルといわれる小さき者を思い出しました。
アンデネスとよばれる大きな段々畑を望むことができました。
コンドルの神殿に通じる居住区を通り抜けると

大きく羽を広げた形をした
コンドルの神殿が現れました。

くちばしの部分は生贄の儀式に使われた台だそうです。

溝の部分から流れる血が下にたまり
大地に捧げられていたそうです。
インカの時代から枯れることのない
水飲み場を見ました。

数キロ以上離れたアンデスの水場から水路をひいて
このマチュピチュに引き込んでいるということですが
水源を秘密にするために
水路の技術者はのちに殺されてしまったと聞きました。

歴史は時に残酷です。
この石段に水路が彫られています。

すごい!
午後5時が迫ってきました。
じっくり約3時間
夢のような時を過ごしました。

夕日に焼けていく遺跡「マチュピチュ」です。
明日も明後日もこれからもずっと
この景色は繰り返されていきます。

ここにこれたことの幸せと
夢を実現できた感謝の感情が沸き上がってきます。

相棒と一緒に本当にここに来ることができました。

ありがとう


なぜ
インカ文明は終わってしまったのか

ここへ行ったからこそ
書籍を読みかえして分かることがあります
改めて興味を覚えることも多いです

マチュピチュの建設時期は1450年から1460年だともいわれています
1420年が建設時期だという学説もあります
今から500数十年前です

日本でいえば室町時代
ここでは
インカ文明といわれる時代です

紀元年以前に大陸から渡ってきた人たちが紡いでいった時代の末期が
インカ文明といわれる時代です
なぜ
インカ文明が終ってしまったのか

そこには
地球規模の文明の発達と
それによる侵略の歴史があります

そもそも
土着民族がいる土地に最初に侵略してきたのは
中国やモンゴルなどのユーラシア大陸から歩いて移動してきたモンゴロイドで
地球上の氷河期以降だったといわれています

その時に
ペルーに人類がいたのかどうかはわかりませんが
もし土着の人類がいたとすれば
その時が最初の侵略なのかもしれません

マチュピチュ遺跡を巡っていた時に
小人族の住みかとして説明があった居住区にものすごく興味がわきました
北海道のコロボックルと同じにおいを感じました

さて
大航海時代が始まって
西洋の文明が侵略を伴って世界をつなぎ始めました
そして
1532年にスペインの軍隊がアンデス地域におりたったそうです

1532年
日本は戦国時代でした


その当時のインカ帝国では
11代王位を務めたワイナ・カパック王が亡くなり

王妃の子ワスカル(クスコで王位継承)


側室の子アタワルパ(エクアドル、キトで王位継承)

                                                     ※ウィキペディアから画像引用
の間で真の王位継承をめぐってもめていたそうです

結果的に1532年にアタワルパが君主となり王位がかたまりました
そして
その年にスペインの軍隊180人を率いて軍人フランシスコ・ピサロが入国し

フランシスコ・ピサロ
                                                 ※ウィキペディアから画像引用
1533年には
アタワルパ王をとらえて処刑し
長い歴史のインカ文明を終わらせてしまいました

その当時のアタワルパ王は
軍人ピサロを世界の終わりを告げに訪れる神ビラコチャともとらえていたそうで
ピサロはその思想を利用して王にやすやすと近づくことができたようです

それぞれの歴史の流れが変化の中で同調していたといえる感慨深い瞬間だったと感じます

スペインが滅ぼしたインカ文明ですが
そもそもスペインが俗称にした言い方だったようで
インカとは
インティ(神の子)という意味の絶対的権力を持つ権力者を示す言葉であったそうです

インカ文明とは南アメリカ先住民の創造した文明で
クスコが宇宙の中心だと考えられていたそうです

クスコの旧市街地にはたくさんのインカ時代の遺跡がありますが
ピサロのような征服者によって多くの遺跡が破壊され
その場所に新しい教会などが建てられました

マチュピチュもインカ時代の主要な都市であったことは間違いないといえますが
そのような侵略にあわなかったのは
渓谷の奥の山の稜線に築かれた要害だったから侵略者に気づかれなかったといえます

なぜ
マチュピチュは終わってしまったのか


マチュピチュは高貴な身分の者が住む都市として建築されスペイン人にも教えなかった秘密基地といわれています
しかし
ガイドのホスティーノさんの話によると
スペイン人の侵略を恐れて
秘密の都市のままこの地を離れていってしまったという説が有力なようです

マチュピチュの発見

人々が離れてしまった都市はあっという間に廃墟になります
マチュピチュも
現地の人々がその存在を認識していた程度で
アメリカの
ハイラム・ビンガム(インディジョーンズのモデルとなった冒険家)

改めてこの遺跡に興味をもち
整地をして視覚化したことで今の世にひろまったのだと思います

1911年7月24日
この都市遺跡が発見されました

ワイナピチュ(若い頂)の麓に
廃墟となったマチュピチュが垣間見れます
整地前に撮られた1911年のマチュピチュです

この廃墟と化した峰を整地して浮かび上がった
マチュピチュ村の想像図です

ビンガムが調査のためにマチュピチュ村を訪れたとき
この地に段々畑を作っていた二人の農民に出迎えられたといわれています

マチュピチュの遺跡に案内を乞うと
一人の少年※

※パプリトPablitoという名で知られている少年メルキアデス・レチャルデMelquiades Rechart に案内されて
ここにたどり着いたそうです

この少年は
何度もここにきて遊んでいたのかなぁ
歴史をつむぐ存在になるとは思わなかっただろうなぁ

Machu Picchu

と表記されるマチュピチュですが
現地の人に「マチュピチュ」と語ると不思議がられるそうです
正確には「マチュピッチュ」と呼ばれると教えてもらいました

マチュピチュに寄り添うようにそびえている山は
ワイナピチュ山です
この村をワイナピチュ村と呼んでもおかしくないと思いますが
なぜか
段々畑の背後に高くそびえている山
マチュピチュ山から名前がとられています

実は
インカの人々はこの村をワイナピチュと呼んでいたそうで
ビンガムがこの村のことを当時の村人に聞くと
山のことを聞いているのかと勘違いした村人が
「マチュピチュかっ?」
と答えてそこからビンガムがマチュピチュと記載するようになったとも言われています

ちなみに当時のケチュア語では
マチュは「年老いた」
ワイナは「若い」
ピチュは「山」
とされているそうです。

マチュピチュに至る道

遠く日本から訪れたマチュピチュです
当然のように現在のマチュピチュ村まで列車で向かい
そこからバスで遺跡への入り口まで向かうことになったのですが
行ってみて分かったことは
幾つかのインカ道を徒歩で踏破してマチュピチュ山からマチュピチュに入る道もあること
ウルバンバ川沿いにもインカ道があり
そのを歩いてマチュピチュ村に入ることができること
ワイナピチュへ上るツアーも予約制であること
などがわかってきました

つまり

日本における富士登山も

当たり前のようにツアーに組み込まれる
吉田ルート
しかないように思われますが
アプローチはいくつもあるということなのです

過去に複数回登った富士登山はすべて吉田ルートでしたが
調べてみると
コアなルートがいくつもあります

マチュピチュはそう頻繁に行くことはできませんが
富士山は我が国の山です

ということで
マチュピチュに負けない世界自然遺産
富士山に
この年の8月に夫婦で登ることにしました

スタートは海抜0mの海から
浅間神社にお参りして
4日目に山頂を目指します

下山までの日数はは4泊5日

ワクワクする目標ができました
ペルーから帰って相棒と毎日のトレーニングを続けています

次にペルーに行くのは
ピースボートです

マチュピチュとの再会を楽しみに
つぎは富士山行ってきます


アウトドアレポート